本物を味わう
「静かですね」椅子に座るなり声をかけた。「明日は予約で一杯なんですけどね。こんな日もありますよ」と主人。「高級ってのがいけないんじゃないですか?」と表の看板のことを口にすると、「うちはそんなに高くありませんよ」と看板の意味するところを説明してくれた。
精悍で男前の主人を前にすると誰もが緊張するだろう。銀髪の軽口に連れはヒヤヒヤしているようだ。写真撮影を許してもらった後、名刺を渡した。主人も仕事の手を止めて名刺を銀髪にくれた。
ひらめの煮こごりと聞いて驚いた。ふぐなどはよく食べるがひらめは恐らく初体験。続いて出たひらめの刺身の確かな歯応え。感激していると、主人の顔が徐々におだやかになってきた。「髪は染めているのですか?」と聞くと笑って首を振る。70歳にはとても見えない。
「それ大好きなんですよ」さよりの皮を串に巻くのを見て嬉しくなる。さよりの身の厚さに感心すると、「かんぬき」だからねと説明してくれた。大きなさよりを閂に例えて呼ぶそうだ。いなだもこんなにしっかりとした身のものは食べたことがない。4時過ぎに起きて、5時半頃には築地の行きつけの中卸で仕入れする。何十年来の習慣があってこそ上物を手にすることが出来る。
「鮟鱇?」「ひらめの肝です」「松輪?」「松輪のサバは夏。これはシャコで有名な小柴産」「スミイカも大きくなってきましたね」「そうだね」。丁々発止の会話が続く。連れはもう安心して食べている。「昔はもてたんでしょうね」と持ち上げると、「忙しくてそんな暇はなかった」と修行時代の話。親方に包丁の背で叩かれた指の傷跡を見せてくれた。「今の若い奴は…」彼の技を盗む若手は横に居ない。それにしても職人の手のなんと凄いことか。
「同じ魚なのにどうして寿司にするとこんなにも味が変わるんですかね」と言うと、主人は大きく頷く。3日漬けた鮪のづけ、中トロ、すみいか、見て美しく、食べて美味い。しゃりを包むように握るために仕込んだ切り身を見せてくれた。手の平に乗せるとすべてきれいに収まる。「しゃり少な目」と言われれば応じるが、ネタも小さくしなければ美しくない。実に面白い。
海老が凛々しく美しい。キリリとした寿司とは対称的に場はますます和んできた。「あれは握と書いてあるんですか?」と料理を離れて壁の書のことを質問する。将棋の故大山康晴15世名人が40年前の開店祝いに書いてくれたもの。花柳界華やかなりし頃、政財界をはじめ多くの名士たちが喜久好で舌鼓を打ったそうだ。
最後に頼もうと思ったコハダと穴子は言わなくても出てきた。このコハダは堪らない。ひらめの椀物、玉、柿を食べてお開きになった。ふと目を上げると主人が名刺を差し出している。「あれっ?最初に交換したのに」と思ったが、素直に受け取った。先ほどのは単に銀髪に応じたもの。今回は主人の心からのものと勝手に解釈した。
「いやー、いろいろ勉強になりました」と頭を下げると「こちらこそ、お客様から教えてもらうことが多いんですよ」謙虚さも名人の条件と唸らせる。奥様に見送られながら店を出た。
ビール1本、日本酒三千盛2合を含めて2人で2万8千円弱と、主人が言ったようにそんなに高くはない。本物の職人、技に出会えたと思えば安いものかもしれない。
喜久好
東京都港区赤坂3-16-2 栄林会館B1
03-3585-2478
投稿者 銀髪 : 2009年11月25日 07:50
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